施術者プロフィール
整体処せせらぎ 整体師・井川
血液型:AB型
1972年4月10日生まれ・牡羊座
夫と二人の息子の4人家族です。
愛知県出身
千葉大学教育学部卒業
立教大学大学院文学研究科博士前期課程修了
【略歴】
大学院ではユング心理学について研究しました。
心・たましい・集合無意識・癒しなどに当時から関心がありました。
長男出産まで私立小中一貫校で教師として働きました。
様々な家庭の事情や虐待などで親元で暮らせない子供達が共同生活を送る児童養護福祉施設に併設されている学校でした。
施設から通学する子も、外部から通学する子も、想像を絶する心の傷を抱えている子がほとんどでした。
当時出会った子供達から沢山のことを学びました。
彼らに心から感謝しています。
そのほかアルバイトで、進学予備校での講師、家庭教師、通信教育の赤ペン先生など、教育関係の仕事をいろいろやりました。
子供が大好きで、教えることも大好きです。
教師を退職して以降は、専業主婦として育児に専念してきました。
もともとは産後は教師に戻るつもりでしたが、、長男の出産時に股関節を傷めたことで、すぐの復職は不可能になりました。
しかし、その股関節痛のお陰で整体の世界と運命的な出会いをしました。
知れば知るほど整体の世界に惹きつけられ、整体師として働きたいと思うようになり、現在に至ります。
上記のような略歴だけをご覧になると、股関節を傷めたこと以外何の挫折もない順風満帆な人生だったように思われると思います。
しかし実際の私は、中学生くらいから、常に身体の不調や不定愁訴に悩まされてきました。
病院に行ってもどこも悪くないと言われ、仮病とか大げさだとか、精神的なものと言われてきました。
皆頑張って生活しているのに、あなたは頑張りが足りないと言われてきました。
自分の辛さを誰にも理解されない苦しみを味わい、どこにも異常がないのに人並みに頑張れない自分を恥じて、いつもどこか自分を責めていました。
実は、のちに分かったことですが、私の身体には3つの大きな異常がありました。
①先天的に腎臓に奇形(水腎症)があったこと。(→23歳の時はじめて分かりました)
②歯のかみ合わせが悪すぎて、身体に大きな歪みが生じていたこと。(→33歳の時はじめて分かりました)
③股関節に異常があったこと。恐らく先天性股関節脱臼。(→34歳の時はじめて分かりました)
いずれも、通常の健康診断や、専門医以外には見つけられない、特殊な症例でした。
以下は、三つの原因不明の身体の不調を抱えた私がいかにしてその異常を克服し、整体に出会ってどのように救われたか、その軌跡です。(以下は非常に長文です)
体の異変のはじまり
小学6年生までの私は、元気そのものの子供でした。
股関節の異常のせいか、子供の頃からひどい内股でしたが、そのことで不都合を感じたことはありませんでした。
足が速くて、6年生の時、市内の陸上大会の400mリレーで優勝したこともありました。
中学校でも、当然陸上を続けるつもりでした。
ところが中学校に入ってから、体調が激変しました。
まず、速く走れなくなり、それどころか、走ると内臓がねじられるように猛烈にお腹が痛くなるようになったのです。
病院で検査をしても異常は見つからず、思春期の体型の変化のためか、もしくは精神的なもの(走りたくない)のためではないかと言われるだけでした。
私は走るのが好きでしたので、精神的なものと言われるのは心外でしたが、病院で異常がないと言われる以上、中学生の私に反論するすべはありませんでした。
次に、中学1年生の半ば以降、今度は慢性の腰痛に悩まされるようになり、学校に行くことさえ辛くなってきました。
親や先生からは「不登校ではないか」と言われていましたが、当時、学校生活は上手くいっていましたので、不登校になるような原因は考えられませんでした。
それでも、週の後半になると朝起き上がれないくらいの腰痛と疲労感でよく欠席しました。
私は体力には自信がありましたし、学校に行きたくないと思うような要素は何もないのに、自分に何が起こっているのか、自分でも分かりませんでした。
けれどこれも、周囲の大人からは、私の仮病、もしくは、単なる怠け心と受け止められ、なぜ皆のように頑張れないのかと叱られるだけでした。
今にして思うと、中学1年生の頃の私は、現在とほぼ変わらない身長にまで成長し、第二次性徴が始まっていました。
そこで、体型や身体のバランスの変化から、上記①~③の異常が顕在化し、子供の頃には起こらなかった問題が次々に発生してしまったのだと思います。
けれど、この三つの異常は、その後大人になるまで異常を発見されることはなく、どこに行っても「精神的なもの」「怠け心」「頑張りが足りない」と言われ、常に頑張れない自分を恥じてきました。
高校時代には、もはや学校生活を楽しむ余裕はなくなっていました。
学校にはただ出席日数をかせぐために登校するだけ。
登校するだけで精一杯で、授業中はほとんど寝ていましたし、部活もスポーツをする余裕はとてもなく、学校の成績も酷いもので、赤点も何度も取りました。
ただ、要領が良かったのか、定期テストではない、外部の模試や実力テストの成績は良く、先生からはやる気のない生徒だとうつったことでしょう。
いつも「努力すれば上を狙える実力があるのに、なぜ頑張らないのか」と言われていました。
でも、私にしてみれば、これでも頑張りすぎるくらい頑張っていましたので、これ以上のことはとても考えられませんでした。
みんなのように頑張れない自分を、自分でも「怠け者」だと思うようになり、どんどん自分に自信をなくしていきました。
大学に進学してからもこの状況は続きました。
あきれつつも仲良く面倒見よく付き合ってくれて、助けてくれた友人たちには感謝してもしきれません。
友人たちの助けでなんとか4年間を乗り切りましたが、4年生の教育実習は本当につらかったです。
当時の教育実習というのは、実習先の学校での雑用係的な側面があり、実習の一か月間、担当の先生の助手として一生懸命働いてこそ評価を得られます。
けれど当時の私には、この、一日も休むことなく出勤するという当たり前のことが至難の業でした。
研究授業や、子供達との関わりは上手く行っていたと思いますが、高熱と血尿が出て実習を一か月の間に2日欠席し、皆勤しさえすれば「優」が取れる実習で、「良」しか取ることができませんでした。
これは、今後社会にでて、社会人として働いていくための基本中の基本が私にはできないということを意味していました。
社会に出ることに自信をなくし、大学院に進学したのはそのためでした。
水腎症の手術と腰痛からの解放
さて、大学院の入試と結婚式の準備を控えていた23歳の時、突然、息もできないほどの猛烈な腰の痛みに襲われました。
痛みを抱えて救急病院に行くと、腎盂と尿管に結石があることが分かり、泌尿器科で精密検査を受けることになりました。
その検査で初めて、私の左右両方の腎臓と尿管には先天的な奇形があり、腎盂が異常に肥大して水腎症という状態になり、腎実質までが変形していることが分かりました。
尿管はねじれていて、ちょっとした姿勢の変化などでねじれが酷くなり、尿が通るのを妨げていました。
一説には陣痛に匹敵する痛みと言われる尿管結石は、結石が尿の通りを妨げることで起こる痛みですが、私の尿管は常にそれに近い状態に置かれていたのです。
このままでは妊娠・出産にも差し支えるとのことで、特に肥大の程度の酷い右の腎臓のみ、尿管を広げるための内視鏡手術を受けることになりました。
手術後腎盂や尿管の傷が治るまでの2か月間、腎ろう(腰に穴をあけて腰の管から排尿する)という不便な生活を送りました。
そして2か月後、すべての治療を終えた時、中学生以来の慢性的な腰痛から解放されていることに気がつきました。
腰痛を治す目的で受けた手術ではなかったので、これは本当に思いもかけない副産物でした。
腎臓を手術した後は、嘘のように頑張りがきくようになり、長時間の立ち仕事など、以前の私には不可能だったことも、難なくできるようになりました。
一定時間立ったまま過ごすということは、苦行でもなんでもなく、我慢の必要もないということを、腰痛から解放されて初めて知りました。
(それまで、自分以外の人達は、苦痛に耐えて立ち仕事をしているのだと思っていたのです。)
これまで自分の怠惰のためだと自分を責め続けてきた症状のうちのひとつが、病気のためであったことが分かり、どんなに救われたか分かりません。
原因が分からず誰からも理解されないことの、原因を解明されることが、どんなに本人にとっての救いとなるか、その時私は身をもって経験しました。
まだまだ健康な人に比べたら、私の体力のなさは比較にならないほど酷いものでしたが、以前が酷すぎたので、これでも人が変わったようでした。
大学院修了後、なんとか教師として働くことができたのは、この手術のお陰です。
この手術なしに、私が人並みに働くことは決してできなかっただろうと思います。
病気を発見してくださり、手際よく手術してくださった当時の主治医の先生には心から感謝しています。
教師として働いている間も、やはり疲れやすさは変わらず、不定愁訴もあり、休みの日はひたすら寝て体力回復に努める日々。
それでも、教育実習の頃に感じた社会人不適応の烙印から解放されて、人並みに働けていることが嬉しく、仕事もやりがいがあり、頑張って働いていました。
そんな中、不妊症が判明し、働きながら不妊治療を受けることになりました。
治療の甲斐あって、双子を妊娠。
どんなに嬉しかったか分かりません。
しかし、妊娠初期の段階で、双子のうち一人を失ってしまい、残るもう一人の成長も遅いので流産を覚悟するようにと言われました。
本当は出産直前まで働いて産休を取るつもりでしたが、どうしても後悔したくなかったので、思い切って学校を退職し、お腹の子を守ることに全力を注ぐことにしました。
幸いにもその後の妊娠の経過は順調で、33歳の時、無事長男を出産することができました。
あり得ない難産と股関節痛の発症
しかし、その長男の出産はあり得ない難産でした。
通常はせいぜい半日~1日程度しか過ごさない陣痛室に、なんと4日間も寝泊りしました。
あとから入ってきた妊婦さんの「ううっ!オギャー!」を何度聞き、赤ちゃんと共に退室していくのを何人見送ったか分かりません。
私は破水が先だったのに陣痛が起きなかったので陣痛促進剤を使ったのですが、大病院のため、陣痛促進剤の投与が朝8時から夕方5時までとお役所的に決められているのです。
そのため、せっかくいいペースでついてきた陣痛も、投与をやめる夜の間に遠のいてしまい、翌日朝から仕切り直し、というのを4日繰り返したのです。
夜は、痛みが軽くなるとはいえ継続している陣痛と、昼夜を問わないほかの方のお産のバタバタ音で眠れず、4日間、ほぼ一睡もできませんでした。
4日目には疲労で骨盤が悲鳴を上げ始め、左の股関節の骨を身体の内側からハンマーでガンガン砕かれているような、拷問を受けているよう痛みが起こり、気が狂いそうでした。
次男を産んで初めて分かりましたが、この痛みは陣痛とは別物でした。
4日間の極度の疲労とストレスに加えて、お産に向けて骨盤が開いていくためにもともとの股関節脱臼が悪化したことによる痛みでした。
難産の結果、産後気付くと酷い左股関節痛で歩けなくなっていました。
生まれた長男は、私には天使にしか見えないほど可愛く、辛い不妊治療や教師の仕事や拷問のような難産を引き換えにしてもおつりが来ると思えるほどの幸せを感じました。
けれど、現実問題として、産後には24時間待ったなしの赤ちゃんの世話が待っています。
それなのに、私の股関節痛はひどく、部屋を移動するのにも這って移動するしかないほどの痛みで、わが子の世話が満足にできないほどでした。
たたありがたいことに、長男は健康であまり泣かない赤ちゃんで、母乳さえ飲んでいれば満足という子でしたので、決定的に育児に支障が出ることがなかったのは幸いでした。
整形外科にかかっても、レントゲンでは異常はないと言われ、痛み止めとシップを渡され、「なんなら松葉づえを貸し出しましょうか?」と言われるだけ。
その後、接骨院やカイロプラクティックなど、いろいろ通いましたが、どこに行っても満足できる結果を得られませんでした。
これだけの痛みが出ているにも関わらず、レントゲンなどの目に見える原因が分からない限り、現代の医療がこの痛みに対してできることは何もなかったのです。
(といっても、私の腎臓を治してくれたのは現代医学ですから、このことをもって、現代医学を全て否定するつもりはありません。)
やがて、もう人の手を頼らず自分でなんとかするしかないと思うようになり、独学で野口整体や操体法を学び、自己流で活元運動やセルフ整体などを試行錯誤しながら、
この痛みに納得のいくアプローチをしてくれる人はきっといるはずだと模索していました。
そんな中でのふたつの出会い。
腎臓の手術に続く、このふたつの出会いが、私の人生を変えてくれました。
これは長男が自分の誕生を通して、私の身体の不調を根本から治す方法を知らせに来てくれたのだと信じています。
歯のかみ合わせと頭の重心の関係
ひとつは、ひょんなことから、かみ合わせ治療の権威として本を何冊も出されている歯医者さんを紹介してもらったことです。
ここで、私のかみ合わせがひどすぎて、頭の重心が完全に狂っており、重心の狂った頭を支えるために身体も歪みまくっていることが分かりました。
実は私が中学生の頃、ほぼ永久歯に生え変わり、歯列からはみ出した永久歯を次々と抜歯しました。
歯列矯正をしないのであれば、はみ出している歯は虫歯の原因となり、邪魔だから、というのが抜歯の理由でした。
そして私の当時かかっていた歯科医が、上下左右のかみ合わせを全く考慮せずに歯列からはみ出している歯を抜いてしまった結果、上下左右で生えている本数が違うという状態になってしまったのです。
今思うと、なぜそんなに安易な抜歯を許してしまったのか、抜いた歯は取り戻せず、悔やんでも悔やみきれません。
歯というのは首の骨(頸椎)と共に、ボーリングの玉くらいの重さのある頭を支える役割があります。
にもかかわらず、バランスよく上下左右に同じ対応する歯が生えていないということは、頭の重みをバランスよく支えられず頭の重心が狂い、全身の歪みを引き起こしてしまうのです。
私のかみ合わせを酷いものにしてしまったのは、このためでした。
この歯医者さんの作った特殊なマウスピースを入れ、正しいかみ合わせの位置で噛み、頭の重心の位置が正しくなると、足が内股にならずに真っ直ぐに立てて、股関節痛が消え、身体が軽くなりました。
まるで自分が空中から糸で吊るされているマリオネットになったように、身体の重さを感じないのです。
頭の重心が整うと、こんなに身体が軽くて動くのが楽なのかと驚きました。
ただし、マウスピースで疑似的に正しいかみ合わせを作ることはできても、自分の歯ではありません。
私はただでさえ歯の本数が少なく、上下左右対称に生えていないので、マウスピースを外せば、かみ合わせはすぐにもとの悪い状態に戻ってしまいます。
そのため、ここから根本的なかみ合わせの改善にいたるまでには、それからまた長い年月を治療に費やすことになりますが、ここでは歯科治療の詳しい経緯は省略します。(現在かみ合わせはとても良い状態になりました。)
すぐに根本的なかみ合わせの改善には至りませんでしたが、それでも、正しい位置でかみ合わせた場合の、正しい姿勢や身体の軽さを体感できたことは大きな収穫でした。
私の身体はまだまだ改善の余地があることと、その改善の方向性が分かり、その方向を目指せば身体がどれだけ楽になるかが分かったからです。
こうして、腎臓に続いて、かみ合わせという、私の抱えていた二つ目の異常が判明したのでした。
整体との出会い
<この項、改定作業中>
後日談 -奇跡の自然妊娠-
私はついに3つの異常を克服し、身体の歪みが整って人生が変わりました。
その後授かった次男の妊娠は、なんと結婚15年目にして、生まれて初めての自然妊娠でした。
かつて不妊治療の専門医から自然妊娠はあり得ないと太鼓判を押され、不妊治療以外に妊娠する道はなかったはずの私にとって、これは奇跡でした。
そして次男のお産は、長男の時の難産が嘘のように安産でした。
整った身体で感じる陣痛は、確かに痛いのですが、どこかに「気持ち良さ」がありました。
それは身体の要求に従ったお産だからです。
お産を終えた女性の多くが、赤ちゃんを抱いた途端に陣痛の痛みを忘れてもう一人産みたいと感じるのは、それが身体の要求だからです。
私もやはり、長男の時の拷問のような股関節痛は二度と味わいたくありませんが、次男の時の陣痛なら、もう少し若かったらもう一度味わって、もうひとりくらい産みたかったなと思うのです。
身体の要求に従って生きる時、辛いことや苦しいことや痛いこともひっくるめて、やはりどこかに気持ち良さがあるものだと思うのです。
もちろん私自身が外科手術やかみ合わせ治療を併用しなければ完全に治ることができなかったように、整体も万能ではありません。(でも、かなりのことが整体で対応可能です)
器質的な異常(先天異常や器質変化や骨格の左右非対称など)には、やはり歯科や外科のアプローチが必要なこともあります。
でも、そのような治療の際にも、身体が気持ち良さを思い出し、自己治癒力のスイッチを入れることは、必ず人生を好転させてくれます。
辛い治療を受けているさ中でも、生きる気持ち良さを思い出すことこそが、自己治癒力を高め、治療の効果をあげてくれると信じています。
この素晴らしい整体の技術を、ひとりでも多くの、
・誰にも理解されない辛い症状で悩んでいる方、
・なぜほかの人のように頑張れないんだろうと自責感に苦しむ方、
・社会生活を送る中で常に自分を叱咤し我慢を続けている頑張り屋の方、
・次世代を担う子供達のためにより良い育児をしたいと願っている方
に受けて頂きたいと願っています。
そして、ひとりでも多くの方が、生きている気持ち良さを思い出し、よりよい健康な人生を送れるようになるお手伝いができれば、これ以上ない幸せです。
長い長いプロフィールをお読みくださいまして、ありがとうございました。
整体処せせらぎ 井川