野口整体と自己治癒力

今日は野口整体について少し触れたいと思います。


「せせらぎ」の整体の手法は、野口整体の手法とは全く違います。

けれど、私にとって整体の世界への入り口になったのは、野口晴哉さんの著作でした。

しばらくはひたすら独学で、自己流に野口整体を学んでいました。

けれどその後、野口整体以外にも操体法や共鳴法をはじめ様々な手法を学び、今はほとんど当院のオリジナルの方法で施術していますので、せせらぎの整体が野口整体なのかと聞かれれば、違います。


けれど、野口整体の身体観や整体哲学には強い影響を受けていますし、深い敬意の念を持って今も勉強させて頂いています。

野口整体なしに、せせらぎの整体はあり得ません。

身体の要求に従って自己治癒力を高める活元運動


野口晴哉さんは、ご自身の著作の中で、身体の要求に従い自己治癒力を発揮することについて繰り返し語っています。

野口さんは晩年、「不摂生の後始末を上手にやればやるほど、不摂生を助長する」ため、かえって本人のためにならないとして、治療を捨て、活元運動の普及に尽力しました。


活元運動というのは、簡単に私なりの言葉で簡単に言い換えると、頭の要求から解放されて、身体の要求に従って行うストレッチ運動のようなものでしょうか。

治療家として天才の名を欲しいままにしていた野口さんが、その治療以上の価値を、「活元運動=身体の要求にしたがうこと」に見出していたということです。

自己治癒力には、天才の治療をはるかに越える治す力があり、その力はすべての生き物に等しく備わっているということです。

つまり、私達の身体は、天才治療家以上の天才なのです。



他者の手による癒しと活元運動は車の両輪


ところで、野口さんが治療を捨てた件について、少し私の考えを述べておきます。

私は自分が整体師になったことから言っても、実は治療を捨てた野口さんの考えに全面的には同意していません。


活元運動さえあれば治療は不要であるというのは、理屈としてはその通りですし、それが理想だと私も思います。

私達は、治癒までに必要なものを全て身体に備えて生まれてきていますから。


ただし、かつての私自身がそうであったように、頭の要求に縛られてがんじがらめになった人に、そこから身体の要求に従う気持ち良さに気付いていく過程を一人で全てやれというのは、やはり酷ではないかとも思います。

私達の身体に治癒までに必要なものは全て備わっているのと同様に、私達が他者の存在を前提として生きるように創られているというのもまた事実です。


私達は他者と触れ合うことを心地よく感じ、触れ合いによって癒されるように出来ています。

赤ちゃんがお母さんに抱かれて安心し、お母さんもまた赤ちゃんを抱いて安心するように、自分の手が他者を癒し、他者の手が自分を癒す力を備えていることは事実です。

そうした手当てによる癒しの手法を、野口さん自身も「愉気」と呼んで重宝していました。


そういう生命と生命の交流と、その心地良さとを、「活元運動で十分」と排除してしまうのもまた、何か頭の理屈のように、私は感じてしまうのです。

(正確には活元運動には二人で行うバージョンもありますので、野口さんも他者との交流の一切を排除してしまったわけではありませんが)


野口さんの生前、彼がトイレに行っても、そのトイレの前に患者さんが列をなすほどに、治療を求める人が殺到していたそうです。

治した患者さんはその後どうなっただろうかと、いつも気になってしまう、という趣旨のことも、野口さんは著作の中にこぼしていらっしゃいました。


そういう人たちを治しても治してもまた悪くしてやって来るきりのない現実が、野口さんは辛かったのではないでしょうか。

本当はその患者さんひとりひとりに自分で自分を癒す力が備わっているはずなのに、自分の存在があることにより、かえって患者さんを依存させる結果を招いてしまっている。

人間の身体に誠実に向き合ってきた野口さんだからこそ、それが許せなかったのではないでしょうか。


つまり、治療を捨てたのは、野口整体の冷たい論理的帰結というよりは、野口さん自身が葛藤の末にたどり着いたやむにやまれぬ事情だったのではないでしょうか。

やはり天才治療家である前に野口さんも一人の人間ですから。

私は、野口さんが治療を捨てた一番の理由を、そんなふうに勝手に推測しています。

暖かく、真面目な方だったのかなあと。


けれど、野口さんが提唱された、

・頭の要求から解放されて身体の要求を十分に発揮させることと、

・他者の手当てによる癒しの力によって生命と生命が交流することは、

車の両輪のようなものだと思います。

どちらかだけに力点がありすぎることは問題ですが、やはりどちらも大切な癒しの機能なのだと、私は思っています。